電話占い陸奥は、高い的中率の電話占い。本物のイタコ霊能者が口寄せ・降霊鑑定にあたる電話占い。

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あるイタコの半生

~私がイタコになった理由~

家族や周囲に助けられ、イタコ霊能者として生きる決心を!

私は現在、電話占い陸奥(旧・陸奥鑑定所)でイタコとして働いていますが、ここにたどりつくまでは紆余曲折の人生でした。
北陸の田舎町に生まれ、幼いころはよく庭の植物や虫、または近所の犬や猫などと会話をしていました。人間の言葉が通じるわけではないのですが、直接心で話が出来るのです。厳しい自然と向き合って生きている彼らの話を聞くのはとても楽しかったです。この世の仕組みや霊界の掟のようなものも、彼らから教えてもらいました。逆に、同級生などの関わりの中では、その言葉の向こうにある嘘や卑しい考えが容赦なく飛び込んでくるのが辛く、友人はとても少なかったです。傷ついた私を慰めてくれるのはいつも庭の花や草木、または通りを歩いている野良猫たちでした。
そんな様子を見て両親はずいぶん心配したようです。特に父は目に見えない世界に理解がなく、いつも一人で庭にいる私を見て、これでは社会に出たときに苦労するとこぼしていました。しかし母は、家系的にそのような人が多く、母自身も若いときにそういう経験があったそうでいつも、「あなたの心を守りなさいね」と優しく言ってくれました。

きっかけは母の死

私が16歳のとき、母が事故で亡くなりました。その日、霊感でそれが分かった私は学校に行かない、今日は母と一緒にいると言い張ったのですが、母は「大丈夫よ」と笑って私を送りだしました。今にして思えば、自分の死を子どもに直接見せまいとする母の最後の思いやりだったのかもしれません。でも当時は、何故分かっていたのに何もできなかったのだろう、と長い間自分を責めました。母の一周忌が過ぎても、苦しい夢の中にいるような状態でした。睡眠もうまく取れず、夜中に起き出しては母の仏壇の前でぼんやりしていたような毎日でした。
そんなある日、私はひどい風邪にかかり、高熱を出して寝込んでいました。こんなときにはいつもリンゴをすりおろし、こまめに氷のうを変えてくれた母を思い出しました。私は、泣きながら布団の中で母の名を呼んでいたように思います。その時、亡くなってから初めて、母が夢に出てきました。生前と変わらぬ温かい笑顔で、私にこう言いました。
「もう泣くのはやめなさい。いつだってお母さんはあなたのそばにいるから。それから、あなたは、その力できっと世間のお役にたてるはずよ。○○というところに電話をかけなさい」目覚めたときは汗びっしょりでした。でも母に夢の中とはいえ会えた喜びと、不思議な予言の驚きで頭は冴え冴えとしていました。忘れないように○○をメモし、翌朝、調べて電話をかけると、そこはとあるイタコの修験場でした。その関係者は、情報を外部には決して漏らさないとの規約があるとのことで、私がここへの連絡手段を何処で知ったのと相当驚かれました。私は正直に夢の話をして、高校を辞めそこへ行くことにしました。
ただし、スンナリとはいきませんでした。父が激怒したのです。そんなことをするなら、二度と敷居をまたがせないとまで言われました。でも私の決心は固く、全ての手続きを自分で行い、修験場へ行くことにしました。5つ上の姉だけにはこっそり連絡先を教え、少しの衣類と母の形見である櫛を持って家を出ました。

家出、修行、逃亡の果てに

修験場で何をするのか全く分からぬまま、私はそこへ行きました。イタコ修行の内容は外部へ言ってはならないことになっていますが、それは今までぬくぬくと暮らしてきた私にとって厳しくつらいものでした。中でもそこを取り仕切っている老イタコの修行は本当にきつかったです。例えば、滝行のときに、身体が少しでもぶれてしまったら、厳格に行えなかった罰として平手で叩かれました。心身ともにぼろぼろになりました。
半年後、耐えられなくなった私は、イタコの元を逃げ出しました。帰る場所のない私は、とにかくお金を稼ごうと夜の街へ行きました。繁華街を歩き、立ち並ぶお店を霊視して、「気」が一番美しかった店を選びました。何とか雇ってもらい、私はそれから毎晩お酒と男性に囲まれた生活を送り始めました。
マスターやママはとても良い人で、私の霊能力にも理解がありました。やはり夜の街にはいろいろなことがあります。彼らは何かあるとよく私に相談してくれました。頼られている誇らしさと、二人への感謝の思いを胸に、私は懸命に働きました。
2年後、そこで一人の男性とめぐり合い、結婚しました。彼と初めて会ったとき、この人とはきっと生活をともにするだろうと分かりました。結婚生活は当初楽しかったですが、彼は私の霊感にはあまり関心を示しませんでした。そして、時折「この人はもうすぐ病気になるよ」「明日はここで事故があるから、いつもと違う道で会社に行った方がいい」などというとばかにされることもありました。そして私の霊視が外れることはほとんどなかったです。でも、そんなのはただの偶然だ、お前は自分を特別と思っている、生意気だ、などと吐き捨てられて、彼の虫の居所が悪いときには殴られることもありました。そうして徐々に心が離れていき不仲になり、彼は家庭に戻らず浮気を繰り返すようになりました。
私は、再び家を出ました。

私の生きるイタコの道へ、再び

失意の中、お店に戻るとマスターとママは笑顔で迎えてくれました。しかし、ママは厳しい顔で言いました。あなたは、本当にやるべきことから逃げている、亡くなったお母さんへ堂々と顔向けできる人生を送りなさい、と。私ははっと目が覚めました。そうだ、何をやっているのだ、と思いました。一晩だけ、ママの家に泊めてもらいましたが、翌日には以前お世話になったイタコの修験場へ戻ることを決意しました。
恥を忍んで門をたたくと、老イタコは、そろそろ帰ってくると思ったと静かに言いました。そしてまず、ここを裏切った罪を浄化してからイタコ修験を再開すると宣言され、罪滅ぼしの修行に入りました。それは、かつての修行など比べ物にならないほどつらいものでした。初めは滝行や座禅などで身体を研ぎ澄まし、霊界からの託宣を受け取りやすい心身を作りました。私には罪がある分、朝5時に結界の中にある井戸水(聖水)を11回浴びる水行と、わらを積んでお灸をいぶし、その上で座禅をする火行が毎日課せられました。それから、3000ほどある真言や呪文の暗記、呪術を覚え、霊界と繋がるための舞踊や唱も学びました。霊感をうまく扱えるようになるまでは、術を行うたびに体調が悪くなり、嘔吐を繰り返していたものです。私には罪があったせいか随分時間がかかりました。でも、もう後戻りできないという気持ちと、母への思い、そしてママの言葉が支えになり、かろうじて逃げ出さずに済みました。
はじめて霊感を術の中に込められたときは感動的でした。術中、身体が急に軽くなり、手のひらと胸元が内側から光りました。ああ、霊界からようやく認められた、と安堵したのを覚えています。何か危険を察知したときにしか見えなかった霊的存在が、いつでも見えるようになったのはその頃からです。3年かけてすべてを終え、晴れてイタコとして一人前になった私は、老イタコの紹介で仕事を始めました。初めは対面の仕事から始め、徐々に慣れてきてから電話占いの仕事も出来るようになりました。

家族との和解

仕事をしてから3年後、また風邪で寝込んでいるとき、夢の中に母が現れました。そして、父が私に会いたがっている、実家に一度帰りなさい、と言われました。私は休みの日、おそるおそる姉に連絡し、実家へ帰りました。数年ぶりに会う父は年を取り、すっかり小さくなっていました。私は親不孝を詫びました。でも、父は涙を流して喜んでくれて、本当に嬉しかったです。姉の子どもたちとも仲良くなり、帰ってきてよかったと心から思いました。今は家族も私の仕事を理解してくれ、時折こちらの名産を持って帰省しています。
色々あった私の人生ですか、これからは自分の霊能力を出来るだけ多くの人のお役に立ていかなければ、と思って日々電話を取っています。家族、そして亡くなった母、ママ、マスター、老イタコ、元夫、全てが私の支えです。

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