陸奥鑑定所とは 設立者、氷白スエ(こおしらすえ)イタコ霊能者特別寄稿(2)

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陸奥鑑定所とは

設立者、氷白スエ(こおしらすえ)イタコ霊能者特別寄稿(2)

陸奥鑑定所 ~設立の切っ掛け~

陸奥鑑定所 ~設立の切っ掛け~

イタコ霊能者として独立をしたと言っても、青森陸奥に事務所を持ったとか相談者の予約で予定表がいっぱいになったとか、そんなことはまったくありませんでした。幸いにして親や家族の保護の元、自分が身を粉にしなくても食べていける環境だったから、必死さというものを出さなくても良かったのです。それに私には祖母の教えもあって、イタコによる巫儀を商売として使う気持ちがサラサラ無かったことも影響していたのでしょう。

ところで、イタコと言えば下北半島の恐山大祭のイタコマチが思い浮かぶでしょうか。ここをお読みになるくらいの方なら、もっと知っていてあるいは川倉賽ノ河原地蔵尊や、上北郡百石町のイタコマチなどが浮かびますでしょうか。いずれにしても、なぜ私がそれらに出向いて、対面鑑定の能力を披露しなかったか疑問に思われるかもしれませんね。別に大仰な理由はございませんで、私自身は極度の緊張しいなのですよ。なにぶん、小さい頃から巫儀の修得・修行に明け暮れておりましたわけですから、同年代の子供を始めとした普通の家族に触れてこなかったことで、こんな性格になってしまったわけなのです。ですからイタコマチに足を運び、大勢のイタコに囲まれて、さらには大勢の相談者の方から視線を受けるイタコマチは、口寄せを行なうにも私には精神的な気後れとも言える感覚があったのです。

もちろん、他のイタコと交流が皆無だったわけでもありませんで、祖母の弟子、つまりは母の妹弟子であり私にとっては姉弟子にあたるお2人のイタコ霊能者とは、年齢が離れていようとも気心が知れておりました。そして後にこのお2人と私が一緒になり、陸奥鑑定所を立ち上げることになるのです。

陸奥鑑定所、設立前夜

先に申しておきますと、姉弟子のお2人はすでに鬼籍に入っております。おひとりは陸奥鑑定所が設立されて3年後、もうひとりが亡くなったのはその8年後のことでした。ですが当時は、それほど落ち込んではおりませんでした。なにしろ自分はイタコ、死者の声を聞くことを生業としているのですから、「困ったときは、姐さん方に降りてきていただこう」などと思っていたものです。しかしあらためてこうして文字に致しますと、なんとも薄情な印象を受け取られかねないですね。控えましょう。

さて話を本筋に戻しましょうか。陸奥鑑定所の設立は、祖母の言葉が切っ掛けでした。表向きはイタコとしての活動から身を引いていたとは言え、口寄せなどの霊能力は衰えていなかったわけですから、どこからともなく噂を聞き付けては祖母への霊媒や降霊、口寄せの依頼が継続してポツポツとありました。遠方から来られる方がほとんどでしたから、心苦しくて祖母も断れなかったのだと思います。しかし外からはわからないけれども、確実に祖母の霊能力は衰えていき、また年齢からくる体力や精神力の低下などもあり、あるとき完全に引退をする決心をしたのでした。しかしその後も悩みを抱えて祖母を頼ってくる相談者を見捨てることはできない、そこでその受け皿として私たちが力を合わせて看板を背負ってみてはどうかとの話になったのです。

私はもちろん、姉弟子のお2人も戸惑っていました。それぞれを指名してくれる相談者を抱えるほどになってはいましたが、それでも祖母はイタコとして大きな存在であり、私たち3人を合わせても届かないほどの霊能力を持っていたのですから。しかし実のところ、私はこれをもっと飛躍するための良い機会だと捉えておりました。

動き出した陸奥鑑定所

こうして動き出した陸奥鑑定所、このとき私は28歳となっておりました。さて動き出したとは申しましても、大きく広告を出すわけでもなく、することと言えば以前と変わりありません。自分たちの抱えている相談者の声に応え、また祖母を頼ってくる相談者の願望成就や口寄せを私たちが引き継いで行ない、結果を残すことで自分たちの知名度を高め、青森陸奥に限らず徐々に東北地方全体に、さらにその先にと陸奥鑑定所は知られるようになっていったのでした。

当時の私はイタコとしてはまだまだ若輩ではありますが、体力や精神力は充実しておりました。若さに物を言わせて、一日に5件も口寄せを行なったこともあります。さすがにそれは翌日、後悔するほどの疲労を私にもたらしたのですが…今にして思えば、ガムシャラだったと言えますね。ちょうどその頃、つまりは1970年代なのですが、青森陸奥のイタコの数はピークを迎えておりました。視察ではありませんが、興味本位に他イタコの口寄せを見ようとイタコマチに足を運ぶと所狭しと申しますか、あちらを見てもこちらを見ても、イタコの祭文が聞こえてくるのです。そこで感じたのは、「他のイタコに負けたくない」ということでございました。だからガムシャラになったのです。もちろん、口寄せなどは勝負ではありませんから、当時の私はそういうことにして心を奮い立たせ、姉弟子に、母に、そして祖母に追い付け追い越せだったのですよ。

ただその時期以降は、高齢イタコの引退や後継者不足により、イタコの数は減少の一途を辿ることになります。そういった統計や他の地方の話は後々にならないと知る由もありませんが、陸奥鑑定所への霊媒・降霊・口寄せの依頼は増え続けました。とは申しましても、私はそのとき自分の目の前に座する相談者のことだけに必死になっていたものですから、単に忙しいなぁくらいしか感じておらず、しかし充実した毎日を送っておりました。もっとも人に比べて世情に疎く、姉弟子にはもっと世間のことにも注視しなさいとよく言われたものです。