呪いにまつわる恐ろしい話
第1回 巫蠱(ふこ)の残骸 【中編】
深夜、枕許に女の影が立って、ケタケタ笑いながら私を見下ろしていたんですよ…
隣接する空き地から掘り返された、正体不明の動物の頭蓋骨。その日の夜を境に、アパート内で不審な現象が起こり始める。やがて間借り人たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ出していき、困り果てた大家はお祓いができる霊能者に奔走するが…。
アパートの建物と敷地を徘徊する謎の黒い影
異変の兆候は、隣地で骨が掘り出された日の晩から現れたと言います。その夕刻、買い物を終えてアパートに帰ってきた三浦さんは、建物裏手の駐車スペースで警官と向かい合っている店子の1人と出くわしました。彼は付近の工場に勤める20代後半の青年で、普段の呼び名はH君。早番勤務を終えて戻ってきたばかりらしく、片手にはコンビニの袋が下がっていました。
自分の車を降りた三浦さんが声を掛けると、「あ、大家さん!いや、今ね車上荒らしみたいな奴がいたんですよ!」と、血相を変えて成り行きを語り始めました。
H君の話によれば、いつものように仕事を終えてアパートの自室へ帰った際、買い物をしたばかりの袋のひとつを後部座席に置き忘れていたことに気付いたそうです。それですぐに車へ戻ったところ、運転席に見知らぬ女が座っていたのだと…。
H君は驚き、その女に向かって怒鳴り散らしました。するとそのとたんになぜか運転席ではなく助手席側のドアが開き、女はそこから外へ飛び出してきました。もちろん後を追いましたが向こうは足が異常に速くて、とても追いつけなかったそうです。息を切らしたH君を尻目に、女は北側の雑木林の方へ逃げ去ったとのことでしたが、その付近は険しい藪になっており、人が通り抜けるには相当の苦労が要ります。それでH君はしかたなく追跡を断念し、携帯で警察へ通報したというわけです。
風を切るような凄まじい速さ(H君による目撃証言での表現)で、人間が通り抜けられない藪の中へ逃げ込んだというのも異様ですが、それよりもリモコンキーでロックしたはずのドアを、女がどうやって開けたのかが最大の謎でした。しかし車内の何かが盗まれた形跡はなく、破損した箇所なども見つからなかったため、警察はあまり関心を払ってくれず、被害届を出すには至らなかったそうです。またこの時点では三浦さんもH君の体験を疑っていました。「幻覚でも見たんじゃないの?」と。
しかしそれが見間違いでも妄想でもなかったことは、ほどなくして明らかになりました。
水音で目が覚めて、さらに耳を澄ますと女の笑い声が聞こえ…
三浦さん自身が、H君が目撃したのと同じ女らしき存在に遭遇したのは、それから2日後の夜でした。
当夜はわりと遅くまでテレビを見ていて、日付が変わる頃に就寝。するとその寝入りばな、浴室の方から洩れてくる耳障りな水音で目が覚めました。
(蛇口が緩んでいるのかしら?)
眠りかけの重い身体をようやく起こして浴室へ向かったものの、風呂場と洗面所の蛇口はいずれもきつく締まっており、試しにトイレの方も確認したのですがそこの水回りも正常でした。
首を傾げながら改めて耳を澄ますと、最前からの水音は換気扇を通して外部から響いていることが分かりました。もちろん付近に河川などはありませんし、窓の外は月明かりに照らされているので雨が降っているわけでもないのです。これは2棟のうちのどこかの部屋が故障か不注意で浸水しているのかもしれないと考え、彼女は色めき立ったのですが…。
(えっ?人の声?) 水音に混じって、女性が発していると思われる笑い声が聞こえていることに気付いたのはこの時でした。ゲラゲラ、ケタケタという喧しい哄笑。それは次第に水音を圧倒し、最後は笑い声一色に転じました。もしかしたら室内に響いていたのは最初からこの声で、自分はそれを水が流れ落ちる音だと聞き違えていただけだったのかもしれない。そう考えたとたん背筋に寒気が走り、慌てて寝室へ飛び込むと頭から布団を被りました。
おかげで不気味な笑い声はいくぶんか遠くなったものの、代わりに今度は室内に人の気配が漂い始めました。ミシリ、ミシリと床を歩く音が聞こえたかと思うと次の瞬間、強い力で掛け布団を引き剥がされたのです。目の前に現れたのは満面に邪悪の笑みを浮かべた黒い人影…。その存在に関する三浦さんの描写を、彼女の言葉のまま書き記します。
「照明を消した暗がりの中でも、姿形がはっきり見えました。背が高くて痩せぎすの、髪が長い女でした。目鼻が異様に間延びした顔と露出している腕や脚の肌、そしてその上に着ているワンピースみたいな服も全部真っ黒だったのですが、身体中からイヤな感じの赤い光を発しているので全体の輪郭がはっきり分かるんです。その血走った目に射竦められたとたん、恐怖で意識が遠のいて、気がついたら朝になっていました」
黒い女の出没に脅え始めた入居者たち。やがて幽霊アパートの噂が近隣に広まり…
不気味な笑い声を伴う謎の女の出現は、その後も何日かおきに繰り返され、三浦さんはノイローゼのような状態に陥りました。おまけに間借り人たちの部屋でも同様の現象が起きるらしく、1人また1人とろくに理由を告げないまま退去していき、それまで常に満室を維持していた2棟のアパートは瞬く間に空室だらけとなってしまったのです。前述のH君も「家賃も手頃で通勤も便利な場所を去りたくない」と、しばらく頑張っていたそうですが、ある夜勤明けの早朝、建物2階部分の外廊下で背後から何者かに抱きつかれ、その反動で階段を転げ落ちてしまったと。
それから数日後、H君は引っ越すことを告げに三浦さんの部屋を訪れ、ギブスで固められた片手を痛々しげに押さえながら言うには、
「じつは俺、今まで黙っていたんですけど、あの後も何回か自分の車の中で同じ女を見掛けていました。運転中のバックミラーに黒い顔が映って、危うく事故りかけたこともあるんです」。
「えっ、そんな危ないことがあったの?」
「はい。気味が悪いんで近々、あの車も売るつもりです。ねえ、大家さん、アレって幽霊ですよね?」
「そ、それが私にもよく分からなくて…」
「このアパート、何かに呪われているんですか?一体、何が原因でこんなことになっちゃったんですか?」
恨めしげな眼差しでそう問い詰められ、三浦さんは言葉に窮しました。
やがて幽霊アパートの噂は隣近所まで広がり、仲介を任せていた不動産屋に「何とかして欲しい」と頼み込むも、「事が事だけに、こちらでは対処のしようがありません」とすげなく断られる始末。いよいよ危機感を募らせた彼女は、自分の力でその道の専門家を探し、お祓いをしてもらおうと決断しました。
「これは私の手には負えない」 依頼した霊能者たちは異口同音にそう言って匙を投げた
三浦さんの願いを最初に引き受けてくれたのは、隣県で山寺の住職をしているという壮年の男性霊能者でした。マスコミで取り上げられたこともある、その道の実力者という触れ込みで、事情を話すと「成仏できない霊を鎮めるのは得意です」と頼もしい答えが返ってきました。
約束の当日も僧衣をまとった物々しい姿で駆けつけ、丸1日かけて入念にお祓いをしてくれたのですが、肝腎の効果のほどはさっぱりで、後日になってクレームを告げたところ、「やるだけのことはやってみたが、それでもダメだということは、つまり私の手には負えないということ。申し訳ないが他を当たって欲しい」と、高いお布施を払ったにもかかわらず、けんもほろろに言われてしまったそうです。
(テレビや本で読むのと全然違うじゃないの。現実にいる霊能者って案外、頼りにならないのかも…)
期待を裏切られて落ち込んだ三浦さんでしたが、「ここで諦めるわけにはいかない」とその後も力の強い霊能者や拝み屋を執拗に探し続けました。
またその頃になると、アパートの内外に出現する霊は以前の黒い女ばかりではなく、真夜中に敷地で遊ぶ小さな子供の集団を見たとか、窓のすぐ向こうに男の生首が浮かんでいたとか、そういった目撃談の内容にも変化が現れてきました。霊現象がさらにエスカレートしてきたのです。
同時にわずかに残っていた店子たちの身にも次々と良くない異変が続き、病因不明のまま著しく体調を損ねたり、不慮の事故に遭ったりした挙げ句、ついに根負けして部屋を去ることになったのです。最後には大家の三浦さんだけがアパートに残るという、最悪の事態を迎えました。
この間、新たに3人の霊能者や拝み屋さんに頼んだものの、いずれもお祓いに失敗。最後にたどりついたのが、前半の冒頭でご紹介したKさんであったというわけです。